
CBDCの実証実験に参加している国は世界で約40カ国にのぼります。それなのに、実際に通貨として使えている国はわずか3カ国です。しかもアメリカとイギリスという二大通貨圏は、このCBDCという選択肢を事実上見送りました。民間ステーブルコインに法的な地位を与える方向に進んだのです。技術的に実現可能なCBDCが、ここまで普及しない理由は何なのでしょうか。アメリカとイギリスが別の道を選んだ背景には、技術の優劣とは別の問題があります。お金の記録を誰が握るかという権力配分の話です。日本の現状を理解する鍵も、ここにあります。
CBDCと銀行預金では信用リスクの構造に違いがあります
CBDC実証実験と実用化のギャップ
Source: 記事内データ(2026年10月時点)
この権力配分の問題を具体的に理解するには、まずCBDCが何に対する債権なのかを確認する必要があります。CBDCの正体は、中央銀行が直接発行する借用証書のデジタル版です。ここが銀行預金とは根本的に異なります。普段私たちがbitFlyerやCoincheckで日本円を預けるとき、それは取引所という民間企業に対する債権です。会社の経営が傾けば、資産が戻ってこない可能性があります。
一方でCBDCは国家そのものへの債権です。信用リスクという意味では、タンス預金している一万円札とまったく同じ強さを持っています。この違いは普段意識されませんが、金融が不安定になったときに重みを持ってきます。民間のステーブルコインがどれだけ裏付け資産を積んでいても、法的には会社の負債であることに変わりはありません。CBDCはその一段上に立つ存在です。
ここで誰が得をするのかという問いが浮かびます。CBDCが普及すると、中央銀行は個人の決済データに直接アクセスできる立場になります。民間の決済サービスを経由しない分、プライバシーの観点では新しい緊張関係が生まれます。便利さと監視のバランスをどこに置くかは、政治の判断に委ねられている問題です。この緊張関係をどう評価するかで、CBDCへの賛否は大きく分かれます。
ステーブルコイン法制定でアメリカとイギリスは方向性を固めました
3種類のデジタル資産、管理構造の違い
Source: 記事内の分類(CBDC、ステーブルコイン、ビットコインの比較)
CBDCが国家への債権としてステーブルコインより信用面で優位にあるなら、アメリカとイギリスはなぜそちらを選ばなかったのでしょうか。実際に起きたのは逆の選択でした。アメリカは連邦レベルのステーブルコイン法を通し、イギリスも同様の規制枠組みを整備しました。この結果、両国ともCBDCの小売版を本格的に進める動機が薄くなっています。民間企業がドルやポンドに裏付けられたデジタル資産を発行し、中央銀行はそれを監督する立場に留まる構図が固まりました。
日本の文脈で考えると、これは面白い対比になります。日銀はデジタル円の実証実験を続けていますが、PayPayやLINE Payのような決済サービスがすでに生活の隙間を埋めてしまっています。セブン-イレブンやファミリーマートのレジで現金を使う人は減り続けていますが、それはCBDCの話ではなく民間QRコード決済の話です。日本はすでに民間主導のデジタル化が進んでいて、CBDCが入り込む余地が狭くなっているという見方もできます。
筆者自身、数年前はCBDCが数年以内に日常の決済に組み込まれると予想していました。この見通しは外れています。実際に起きたのは、既存の民間決済網がそのまま拡張され、CBDCは実証実験のまま足踏みしている状態です。理由を考えると、民間企業の方が利用者の摩擦を減らす工夫に長けていたという単純な事実に行き着きます。今後CBDCに期待をかけるなら、この民間先行の構図がどこで崩れるかを見ておく必要があります。
国際決済の裏側では卸売CBDCが静かに変化を起こしています
卸売CBDC国際プロジェクトの参加国と進捗
| プロジェクト名 | 主な参加機関 | 進捗段階 |
|---|---|---|
| プロジェクトアゴラ | BIS、日銀含む7中央銀行 | 構築中 |
| プロジェクトヘルベチア | スイス国立銀行 | 実運用中 |
| プロジェクトエムブリッジ | 中国、香港、タイ、UAE | 構築中 |
Source: 記事内記述(プロジェクトアゴラ、ヘルベチア、エムブリッジ)
小売CBDCがアメリカとイギリスで足踏みしている一方、個人の目に触れない銀行間決済の領域では別の動きが進んでいます。実際に動きが大きいのは銀行間決済の裏側、いわゆる卸売CBDCの領域です。国際決済銀行BISが主導するプロジェクトアゴラには、ニューヨーク連邦準備銀行、フランス銀行(ユーロシステムを代表)、イングランド銀行、日本銀行、韓国銀行、メキシコ銀行、スイス国立銀行の7つの中央銀行が参加しています。
スイス国立銀行が進めるプロジェクトヘルベチアは実運用の段階に入り、トークン化された債券の決済に使われています。もう実験ではなく実務です。中国人民銀行、香港金融管理局、タイ中央銀行、アラブ首長国連邦中央銀行が参加するプロジェクトエムブリッジも、複数のCBDCをまたいだ国境を越える決済基盤の構築を進めています。
これらは個人の生活にはまだ直接影響しませんが、国際送金のコストや速度という形でいずれ跳ね返ってきます。今まで数日かかっていた国際送金が数時間で済むようになれば、それは外国に住む家族への送金手数料にも反映されるはずです。この裏側の変化に気づかないまま、数年後に送金手数料の低下だけを実感する人が大半になるでしょう。
ビットコインの設計思想はCBDCと正反対の位置にあります
卸売CBDCも小売CBDCも、結局は中央銀行や企業が管理する通貨であるという点では共通しています。この管理という前提そのものを持たない通貨がビットコインです。CBDCと民間ステーブルコインとビットコインを並べて見ると、三者がまったく違う前提の上に成り立っていることがわかります。CBDCは中央銀行が完全に管理する通貨です。ステーブルコインは企業が管理し、裏付け資産を公開することで信頼を得ようとします。ビットコインはどちらでもなく、発行量が固定され、誰か一人の意思で増やしたり止めたりできない設計です。
bitFlyerやCoincheckでビットコインを買っている人の多くは、この三者の違いを直感的に理解しています。CBDCが整備されるほど、逆にビットコインを持つ理由がはっきりしてくる。管理される通貨が増えれば増えるほど、管理されない通貨の価値が相対的に際立つという構図が生まれているのです。
とはいえ、これは単純にビットコインが勝つという話ではありません。CBDCと民間決済とビットコインは、それぞれ違う場所で使われる道具として共存していく可能性が高いです。日常の買い物はPayPayやコンビニの電子マネーで済ませ、資産の一部をビットコインで持ち、国家間の大きな決済は卸売CBDCが処理する。そうした分業が自然な落ち着き先になるかもしれません。今の時点でどちらか一方に全資産を賭ける必要はない、というのが筆者の見立てです。
デジタル円は2026年10月時点でも実証実験の域を出ていません
ここまで見てきたCBDCとステーブルコインとビットコインの関係を、日本という個別の市場に当てはめるとどうなるでしょうか。日本銀行は長年デジタル円の実証実験を続けていますが、2026年10月の時点でも本格的な発行の決定には至っていません。理由を考えると答えは単純です。日本の決済インフラはすでにクレジットカード、電子マネー、QRコード決済で十分に機能しており、CBDCを急いで導入する切迫した理由が見当たらないからです。
アメリカやイギリスが民間ステーブルコインの法整備を優先したのと似た構図が、日本では民間決済サービスの充実という形で現れています。中央銀行が重い腰を上げる前に、民間企業がすでに生活の隙間を埋めてしまっているのです。この順序が逆転する国もあれば、日本のように民間が先行する国もあります。それぞれの国の決済文化がどう形成されてきたかの違いに過ぎません。
筆者個人としては、日本でCBDCが本格的に動き出すとしても、生活を大きく変える出来事にはならないと見ています。すでにある便利さの上に、もう一つの選択肢が追加されるだけという可能性が高いです。アメリカとイギリスが民間ステーブルコインを選び、日本が民間QRコード決済で代替してきたのも、同じ理由からです。中央銀行が主導権を握らなくても、民間が先に生活の隙間を埋めてしまえば、CBDCが入り込む必然性は薄くなります。40カ国が実証実験を続けながら3カ国しか本格運用に進めていない理由も、ここにあります。お金の記録を誰が握るかという権力配分の問題は、法律や宣言では決まりません。どちらが先に利用者の摩擦を減らすかという、実務の積み重ねで決まってきたのです。それでも、国際決済の裏側で進むプロジェクトアゴラやエムブリッジのような動きは、知らないうちに手数料や送金速度を変えていくはずです。目に見えない場所で起きている変化ほど、気づいたときにはすでに当たり前になっています。この視点を持っておくことが、今後のニュースを読み解く上で役立つはずです。