インフレーションの時代において、現金を手元に置くことは、最もリスクの高い選択肢かもしれません。物価が上昇し続けると、現金の持つ実質的な購買力は容赦なく低下していくからです。最初にこの事実を数字で確認することは、非常に重要だと思います。
例えば、最新のデータでは、2025年9月のアメリカのインフレ率(前年同月比)は3.0%という水準にあります。一方で、大手銀行の普通預金金利は、このインフレ率に比べて遥かに低い水準に留まっています。実質的なリターンを考えると、物価が3.0%上がっている間に、預金はそれに見合った増加をしていないことになります。これは、現金をただ持っているだけで、その価値が毎年目減りしていく「確定的な損失」と言えるでしょう。
現金は溶けていく氷と同じです
インフレの恐ろしい点は、銀行口座の残高という「数字」自体は減らないため、そのリスクに気づきにくいところにあります。私たちは数字が減ることを損失と認識しがちですが、数字はそのままに、そのお金で買えるモノやサービスの量が減ってしまう現象は、なかなか損失として実感が伴いません。
名目上のお金の額は変わりませんが、例えば、去年10ドルだった商品が今年11ドルになったとすれば、私の手元にある10ドルの実質的な購買力は、その分だけ減少したことになります。現金は、ただ置いておくだけで、その価値が自然と失われていく「溶けていく氷」のようなものなのです。
多くの人は、変動がないという理由で現金を最も安全な資産だと考えます。しかし、インフレ環境下で変動がないということは、安全だという意味ではなく、むしろ価値下落というリスクに無防備にさらされていることを意味します。これが現金保有の最も大きな罠でしょう。
お金が働く機会を失うことになります
現金をただ保有しているだけでは、二つの大きな機会費用を発生させてしまいます。
一つ目は、複利効果を享受するチャンスを逃すことです。現金そのものは、新たな価値を生み出しません。銀行預金の利息は付くものの、物価上昇率を上回らなければ実質的にはマイナスとなってしまいます。他の資産は、成長することでその価値をさらに増やしていく潜在力を持っています。
二つ目は、資産価格上昇の流れに乗れないことです。インフレは消費者物価だけでなく、株式や不動産といった実物資産の価格も押し上げる傾向があります。企業は原材料価格の上昇を製品価格に転嫁し、それが企業の収益増につながって株価を押し上げる可能性があります。
現金だけを持っていると、他の資産価格が上がるのを見ているうちに、心理的な不安を感じてしまい、投資のタイミングを逃しやすくなります。気がついた時には、以前よりも少ない現金で、より高価になった資産を買わなければならないという状況に陥ってしまうのです。
負債を抱える側が有利になる現象
非常に皮肉なことに、インフレ時には、借金を抱える側が現金を保有する側よりも有利になることがあります。物価上昇によって貨幣価値が下がると、私が将来返済すべき負債の「実質的な」負担も一緒に減少していくからです。
例えば、10万ドルのローンがあると仮定しましょう。10年後も返済すべき元金は名目上10万ドルで変わりません。しかし、10年後の10万ドルの購買力は、現在の10万ドルより低くなっている可能性が高いです。
つまり、価値が下がったお金で借金を返済することになるわけです。反対に、10万ドルの現金を抱えている人は、その価値下落の被害をそのまま被ることになります。
もちろん、この話は無理な借金を推奨するものではありません。金利が急騰する時期には、利息負担が大きくなり、かえってリスクを高める場合もあります。ただ、この現象は、インフレが現金保有者にとってどれほど不利に作用するのかを示す一例と言えます。
適正な現金の保有水準とは
それでは、現金をどれくらい持てば良いのでしょうか。現金は流動性を確保し、予期せぬ事態に備えるための重要な手段であることは間違いありません。
最も合理的な現金保有水準は、最低でも3ヶ月から6ヶ月分の生活費に相当する緊急資金です。このお金は、資産を増やすための投資資金ではなく、私の生活の安定を守るための「防御壁」の役割を果たします。
この緊急資金は、予期せぬ失業や医療費の支出といった緊急事態が起こったときに、保有している投資資産を安値で売却しなくても済むように守ってくれます。
この資金は、いつでもすぐに引き出せるよう、普通預金や短期預金のような現金または現金同等資産として保有するのが良いでしょう。
しかし、この緊急資金を除いた余剰現金は、インフレのリスクにさらされます。全資産に占める現金の割合は、流動性確保のための最低限のレベルである10%から15%内にとどめることが推奨されます。
価値を守るための資産配分へ
緊急資金を除いた現金は、実質的な価値を維持できる他の資産へと移し替える戦略が必要です。インフレから資産を守る代表的な資産は、バランス良く分散投資することが勧められています。
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株式: 物価上昇分を価格に転嫁できる「価格決定力」を持つ企業の株式、特に配当を継続的に出す企業や生活必需品、公益事業といった防御的セクターの株式がインフレ耐性を持ちます。
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リート(REITs): 不動産に間接的に投資する商品で、賃料収入に基づいた安定的な配当が期待できます。商業用不動産の賃貸契約は物価上昇率と連動することが多く、物価が上がると賃料や配当収入も上昇する傾向があります。
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金および貴金属: 伝統的な価値貯蔵手段です。利子や配当は発生しませんが、貨幣価値が落ちる経済的な不確実性やインフレ時に、その価値が認められて需要が増す傾向があります。
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インフレ連動債(TIPS): 物価上昇率に連動して元本と利息が変動する仕組みを持つ債券で、実質的な価値を保全するのに最も直接的な効果が期待できます。
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海外資産/ドル資産: 米ドルなどの基軸通貨やグローバルなETFへの投資は、為替変動リスクを分散し、国際的な分散投資の効果を得るのに役立ちます。
リスクを避けるために現金を抱え込むのではなく、インフレというリスクに立ち向かうために、現金の割合を調整し、資産をバランス良く配分する積極的な管理が求められる時代です。